武ノ風 山下です
今日は突然なんのこっちゃ??なタイトルからスタートなんですが
この「見視観察と看」という言葉
武道の言葉で
人がなにかを「見る」とき
その「見る」という事に
段階というか
レベルがあるんだよって話しです
じゃあ一体「見る」ってことに
どんな段階があるの?って事なんですが
まず最低なところで言うと
目を開いて、対象物に視点は向いているけど
ただ目を開いているだけの
なんにも考えていないし
なんの意思もない
「ただ目を開いているだけの目」
自分で考えて生きて来なかった人
甘やかされてきた人
人生経験が無いのに勘違いしてる人
そんな人たちが
大抵この目をしています
この目はとても失礼な目で
この目でこっちを見られると
違和感でムカついてきます
そしてこういう目をしてる人ほど
自分になんの疑問も持たず
勘違いと自惚れが強い人が多く
話しをしても会話が成立しない人が多いので
相手にしません
分かり易いところでいうと
変に自信を持っている十代の子供たちなんかも
この目をしている子が多いです
そんな子(大人でもいるけど)が
「オレはこんなことができるんだ!!」と
やってもないことを自信満々に誇示する奴が時々います
そんな子には
「じゃあ、それを今ここで俺に見せてくんないかな?」というと
なんだかんだ言うて
出来ない現実にすぐ直面して撃沈します(笑)
あと不思議なのが
「成功者」と呼ばれる大金持ちのYouTubeなんか見ていると
「金持ちで世間的には幸せなはずやのに、不幸そうな死んだ目している人多いのはなぜ?」
と見ています
そんな低レベルな「見る」はほっといて
「見る」という段階でいうと
ただ見たい物を受動的に見ているというレベルです
好きなテレビを見ている状態の様なことです
僕もゲームをしたり
ボケーとしている時はだいたいこれやと思います
普通に日本で平和に生きてきた人は
大方、この「見る」だけで生きているとおもいます
まぁ、これはこれでいいんですけど
この「見る」は対象物が視界に入るというだけで
頭に情報が入ってこない状態です
人間関係でいうとこの「見る」
違う言い方をすると
「無意識で自分の見たい物しか見ていない」
状態です
この「見る」で人と接する人は
他人の1面だけを見て決め付けたり
思い込みで人と接するため
見てるけど、相手を見ていない状態で
誤解や偏見からスレ違いが起きやすいです
武道の稽古でも
この「見る」で稽古している人は
簡単な事が何度教えてもできないし
相手がいる稽古でも
バタバタしたり慌てた動きをするし
その人からなんの意思も出ないので
分かります
次に「観る」なんですが
「観察してる目」の状態です
なにかを学ぶ時や
興味の有るものを視ている時
相手を理解しようとする時の目です
人間関係でいうと
ちゃんと相手に興味を持って視ている状態で
この目の人と会話していると
「一応、理屈としてこっちの話しは聞いているんやな」
と思える状態です
これはこれでいいんですけど
なにか説明している時にこの目はいいんですけど
感情的な話しになった時
この目をされると
「テメェ!馬鹿にしてんのか!!」
ってなります
武道の稽古なんかでは
最初に形を覚えたり、順序を覚えたりしてる時は
全然この「観察の目」でいいのですが
「意識の稽古」の時
例えば「ありがとうを届ける稽古」の時に
この目の状態では成立しません
この目には意思が無いからです
ほんで最後に
「視る」でり「看る」
って言っても
うまく言えないんですが
自分の「自我」や「思考」を一切無くして
本当に相手と真剣に向き合って
相手だけを「視る」ということで
相手の姿形だけでなく
相手の雰囲気や意識を感じ取る状態の「視る」です
その「視る」によって相手に違和感を与えず
相手と「同調」する
と理屈で言うたらこんなとこですが
僕の感覚で言うと
心を静かにして
自分の意識を濃い状態で
相手だけに意識を向ける
自分の意識と直感だけに身を委ね
相手の意識や雰囲気や流れと一つになる
が言葉にすると近いとこかなって感じです
この「視る」になると
人間関係でも
例えば「嘘」をついている人や
「自我」が強い人なんかは
物凄く「違和感」を感じてしまい
騙されにくくなります
武道の稽古でも
この「視る」になってからが
やっとスタートラインに立った状態で
そこからが武道の稽古が始まる感じです
そこからさらに「看る」というレベルですが
さっきの「視る」を
本当に「自我」を外し
本当に相手を感じるだけの状態でいると
相手の身体の違和感のある所や
相手の身体のラインなどが感覚的に分かってくる状態になります
この「看る」は奥が深いので
僕もまだまだ説明できるレベルではないのですが
稽古の時に生徒さんを見ていて
「身体のこの部分に意識いってないな」とか
「この人、ここばっか意識してんな」とか
「意識の流れが視えたりする状態」の事だろうと思います
この「視る」や「看る」は
本当に稽古が必要で
昨日もこの事を考えていたのですが
「人の強さ」は
肉体の強さよりも
「視る」の強さであり
それを作る「意識」の強さが
「人の強さ」そのものやないかと
自分の中で仮説立てているところです
過去の経験からも
今までも
一人の時に何度か複数人に囲まれ
襲われるという状態になった時
最初、いきなり囲まれたことにビックリして
ビビっている時は
相手もそれに感づいて
今にも飛びかからん状態なんですが
自分が段々冷静になってきて
戦闘のスイッチというか
「この人数相手やられるかもしれんけど、この中の誰か一人は殺してやろう」と
ヤケクソな感じで
意識を濃くするスイッチが入ると
不思議と相手はそれを本能で察知してる様に
意気消沈していき
その複数人の相手のほうから
「この争い止めよう」みたいな話しが必ず出ます
僕の仮説ですけど
「人数も体格も関係なく、人は意識の強弱を本能的に察知し、自分より意識の強い人間には無意識で襲わない様に人間できている」
多分これ正解な気がするし
これまた真の護身術やと推測しているところです
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