「『人それぞれ』の間違った解釈」
昨日、ある中年の男性と話していたところ
「人それぞれ好みがありますもんね」
と言っていた
やっぱり、違和感で気持ち悪かった
「人それぞれ好みが違う」ということ自体は、当然のことだし、そのとおりだと思う
改めて、後から考えてみると
「好みが違う」その「好み」って、単純に好き嫌いの意味もあれば、そのものとセットの思い出なんか込みもあるし、だれかとの同調圧力で言ってる場合もあると思う
じゃあ、なぜ昨日の男性に違和感を持ったのか?
先に言うと
「自分のレベルの低さも知らないのに、レベルの高い物を知らず、自分のレベルで、自分の価値観を美化した表現をすることにより、自分を誇張していること」
をしていることが違和感の原因だと分かった
音楽や、料理なんか、数字化できないものに対しては特にこの言葉を使う方がいる
僕なんかも高級店のお寿司も好きだし、スーパーの魚肉ソーセージも大好きだし
オーケストラの迫力ある音も好きなら、下手くそしかいないけどノリのいいラップも好きだ
どちらの良し悪しもわかった上で、一緒くたのレベルでは扱わない
だって、高級なお店でスーパーの魚肉ソーセージ出てきたら「ふざけるな!」となるし
音楽も、クラシックやジャズを聞きに行って、心地よい音色の中、ノリだけの下手くそラップ挟まれたら腹立ってくる
じゃあレベルってなんなのよ?って言う、センスの無い方がたまにいるけど
レベルって、人間が時間と能力と情熱を注いだ上で淘汰されず今もあるものかどうかであり
そのもの自体に込められている「要素」の量だと思う
チキンラーメン好きだけど、ちゃんとしたラーメン屋に行って「俺チキンラーメンのほうが好みかな」なんて言わない
いくらチキンラーメンが好きだからって、チキンラーメンに1000円を出さない
ちゃんとラーメンの勉強をして、お店も綺麗にして、お出汁を取って、チャーシューを煮て、盛り付けも学んで、提供するという、色んなものに対する対価として、それなりのお金を支払う
それをなんにも考えてない鳩のような脳みそで語る人に対して
「お前、いままで努力してなにかやり遂げたことないやろ?お前のしょうもない価値観で、人の努力の上の本物と、思い付きの薄っぺらい偽物とを、理解できないのは勝手やけど、人に押し付けるな!!」
と強く込み上げてくる
そんなこと書いているとつくづく最近の歪んだ「平等主義」という「良いものレベルを引きずり下ろす不平等」に嫌悪感を抱く
そこを掘り下げると今の「画一的事なかれ主義教育」の日本はどんどん間違った価値観でギスギスしていくのだろうとガッカリする
「良いものは良い!!」「悪いものは悪い!!」と当然に言えるところから善悪は教えられるし
「良いものは残り、悪いものは淘汰される」という当然の自然の摂理から人は切磋琢磨し、前進していくものだと思う
武ノ風 BUNOKAZE
衰えない身体作りとしても学べる護身術教室です。
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